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預地とは
陸奥国(岩代国)河沼郡67村、大沼郡104村、耶麻郡68村、越後国魚沼郡81村が会津藩預地となっていたという。
預地はあずかりち、またはあずけちと読む。
意味としては漢字のまま、
他者から預かって管理を委託された土地のこと。
Wikipedia
とある。
塩沢町史 資料編・通史編
塩沢村と関村は宿継(しゅくつぎ)をしていたようだ。
清水村が飢饉の折に周囲の村から救済金品を届けた記録もある。
また歌舞伎の興行を応援をしていて、文化8年に
役者43人の昼食を賄った記録もあった。
お伊勢参り
文政四年7月には、伊勢から戻った村人を迎えたという記録がある。
お伊勢講の場合、安全のため2,3人で出発し、
みんなで盛大に見送りをした。
戻ったときにもみんなで無事帰還のお祝いをした。
伊勢神宮に祭られている天照大神は五穀豊穣の守り神でもあるので、
農家にとっても重要だったのだ。
Wikipediaによると、講は所属者で定期的に集まってお金を出し
くじ引きであたった代表者の旅費に合計金額を当てるという
中々素敵な仕組みなのだが、
戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた
Wikipedia
のだという。
移動について
伊勢まで江戸からは片道15日、陸奥国からは100日かかったとされる。
通常は現代ほど気楽に旅行できるわけではないが
伊勢神宮参詣の名目で通行手形を発行してもらえば旅程は自由だった。
参詣を終えた後ついでに京や大坂見物をすることもよくあったらしい。
この資料にあったお伊勢参りでも、その後京都へ行き
滝谷の神社号も貰い受けてきたようだ。
参宮人は正月か田植え後5、6月に出発することが多かったらしい。
疱瘡の流行
この辺りでは文政四年から安政2年まで疱瘡が流行したそうだ。
疱瘡とは
ほうそう、天然痘のことである。
飛沫感染や接触感染で感染し、発疹が治った後の瘡蓋からでも感染するほど感染力が強い。
罹患すると高熱や頭痛などの症状が出、その後全身に発疹ができてしまう。
これが膿んでまた熱が上がる。
皮膚だけでなく内蔵にも発疹が出ている為、呼吸困難で死去することが多かったそうだ。致死率は約20%から50%。
数週間で治るが、痕が残った。
エピデミック
日本には元々なかった病だが、渡来人の往来が多くなり罹患者が出るようになった。
神羅から弥勒菩薩像が送られた時期と重なった為に、
仏教を広めたことから日本の神様が怒ったのでは、という世論になったというのは興味深い。
疱瘡神
疱瘡を悪神と捉え、疱瘡神とした。
犬や猿の姿をしていて、赤色が苦手だという。
そもそも赤色には魔除けの意味があり、口紅や鳥居が赤いのも
同じ理由と言われている。
赤べこやさるぼぼの中には、疱瘡除けのために作られたものも多いという。
塩沢辺りの様子
疱瘡はしばしば流行し症状が重いので神の仕業と思われていた。
犠牲者はほぼ子供。
言い伝えに
「疱瘡は、めめのさかい、はしかは命のさかい」
というものがある。めめとは、器量のこと。
疱瘡が流行ると村境に注連縄をし、
疱瘡罹患者が出た村からの入村者も拒否したそうだ。
コレラ
流行
ころり、と言われたコレラ。
この辺りでは「そろりころり」と呼ばれ、安政六年9月頃流行した記録がある。
予防と治療
体を冷やさず、腹に木綿を巻き、大酒大食を慎み
消化の悪い物は食べない。
罹ったら早く寝て飲食を慎み、全身を温める。
芳香散を用いると治ることも少なくなかったという。
芳香散とは現在も胃腸の薬などに用いる漢方である。
調べてみて
幕末期は再び米作りの比重が大きくなったという。
農家とての仕事の傍ら、戊辰戦争においても自分たちの立場で
支えていたことがわかる。
度々出てきた『貝瀬日記』という資料が興味深いが
正式名は 宝暦七丁丑より当分化戊辰迄覚書 という
貝瀬家に伝わっている資料だそうだ。