MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (7) ~地図を調べる~

Googleマップでも調べられはするが、念の為一番古い戸籍にある
本籍地の当たりのゼンリンの地図を購入してみた。

ZENRIN Store(ゼンリンストア)
https://store.zenrin.co.jp/

サイトからオンラインで簡単に購入できて便利だ。
住宅地図出力サービスで範囲を指定し、
入居者名のわかる状態の地図を購入。600円。
本籍地に該当する住宅に表示されていた名前は祖父の従兄。
変わらず本籍地に住んでおられるようだ。
昭和中期に自営業を始められ、現在は恐らく息子さんが継いで
かなり大きい株式会社になっている様子。
会社は市内に移っているが、自宅は変わらず本籍地ということのようだ。

次に調べられることと言えば旧土地台帳である。
ただこれも、壬申戸籍と同様個人情報保護の観点から
閲覧できなくなってきているらしい。
一律ではなく自治体の判断によるとのことなので、
取り合えず該当地の法務局のHPを確認。
旧土地台帳についての記載が見つけられなかったので
メールにて問い合わせる。
3日後回答があり、まだ閲覧できるとのこと。
担当はこちらの支所、と書いてくださっていたが
メールアドレスなどは無く、
平日の9~17時に電話で問い合わせることのハードルが高過ぎて
まだ問い合わせできていない。

休みを取るか、休憩時間になんとか時間を取って電話をしたいところ。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (6) ~塩沢町史~

預地とは

陸奥国(岩代国)河沼郡67村、大沼郡104村、耶麻郡68村、越後国魚沼郡81村が会津藩預地となっていたという。
預地はあずかりち、またはあずけちと読む。
意味としては漢字のまま、

他者から預かって管理を委託された土地のこと。

Wikipedia

とある。

塩沢町史 資料編・通史編

塩沢村と関村は宿継(しゅくつぎ)をしていたようだ。
清水村が飢饉の折に周囲の村から救済金品を届けた記録もある。
また歌舞伎の興行を応援をしていて、文化8年に
役者43人の昼食を賄った記録もあった。

お伊勢参り

文政四年7月には、伊勢から戻った村人を迎えたという記録がある。
お伊勢講の場合、安全のため2,3人で出発し、
みんなで盛大に見送りをした。
戻ったときにもみんなで無事帰還のお祝いをした。
伊勢神宮に祭られている天照大神は五穀豊穣の守り神でもあるので、
農家にとっても重要だったのだ。

Wikipediaによると、講は所属者で定期的に集まってお金を出し
くじ引きであたった代表者の旅費に合計金額を当てるという
中々素敵な仕組みなのだが、

戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた

Wikipedia

のだという。

移動について

伊勢まで江戸からは片道15日、陸奥国からは100日かかったとされる。
通常は現代ほど気楽に旅行できるわけではないが
伊勢神宮参詣の名目で通行手形を発行してもらえば旅程は自由だった。
参詣を終えた後ついでに京や大坂見物をすることもよくあったらしい。

この資料にあったお伊勢参りでも、その後京都へ行き
滝谷の神社号も貰い受けてきたようだ。
参宮人は正月か田植え後5、6月に出発することが多かったらしい。

疱瘡の流行

この辺りでは文政四年から安政2年まで疱瘡が流行したそうだ。

疱瘡とは

ほうそう、天然痘のことである。
飛沫感染や接触感染で感染し、発疹が治った後の瘡蓋からでも感染するほど感染力が強い。
罹患すると高熱や頭痛などの症状が出、その後全身に発疹ができてしまう。
これが膿んでまた熱が上がる。
皮膚だけでなく内蔵にも発疹が出ている為、呼吸困難で死去することが多かったそうだ。致死率は約20%から50%。
数週間で治るが、痕が残った。

エピデミック

日本には元々なかった病だが、渡来人の往来が多くなり罹患者が出るようになった。
神羅から弥勒菩薩像が送られた時期と重なった為に、
仏教を広めたことから日本の神様が怒ったのでは、という世論になったというのは興味深い。

疱瘡神

疱瘡を悪神と捉え、疱瘡神とした。
犬や猿の姿をしていて、赤色が苦手だという。
そもそも赤色には魔除けの意味があり、口紅や鳥居が赤いのも
同じ理由と言われている。
赤べこやさるぼぼの中には、疱瘡除けのために作られたものも多いという。

塩沢辺りの様子

疱瘡はしばしば流行し症状が重いので神の仕業と思われていた。
犠牲者はほぼ子供。
言い伝えに
「疱瘡は、めめのさかい、はしかは命のさかい」
というものがある。めめとは、器量のこと。

疱瘡が流行ると村境に注連縄をし、
疱瘡罹患者が出た村からの入村者も拒否したそうだ。

コレラ

流行

ころり、と言われたコレラ。
この辺りでは「そろりころり」と呼ばれ、安政六年9月頃流行した記録がある。

予防と治療

体を冷やさず、腹に木綿を巻き、大酒大食を慎み
消化の悪い物は食べない。
罹ったら早く寝て飲食を慎み、全身を温める。
芳香散を用いると治ることも少なくなかったという。
芳香散とは現在も胃腸の薬などに用いる漢方である。

調べてみて

幕末期は再び米作りの比重が大きくなったという。
農家とての仕事の傍ら、戊辰戦争においても自分たちの立場で
支えていたことがわかる。

度々出てきた『貝瀬日記』という資料が興味深いが
正式名は 宝暦七丁丑より当分化戊辰迄覚書 という
貝瀬家に伝わっている資料だそうだ。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (5) ~上田村郷土誌~

国会図書館へ

予定がのびのびになっていたが、やっと図書館へ。
調べた資料は以下。

  1. 新潟県史 資料編7近世2(中越編)
  2. 民衆史研究
  3. 日本の町第2
  4. 上田村郷土誌
  5. 三百藩家臣人名事典2
  6. 三百藩家臣人名事典 4
  7. 高志路 8巻
  8. 東北史の新研究
  9. 六日町史 通史編 第2巻 近世
  10. 塩沢町史 資料編 下巻
  11. 塩沢町史 通史編 下巻

一日籠もっていたが、あと4冊ほど見たい資料があったが流石に手が回らなかったので次の機会に。

戸籍から拾えた”新潟県南魚沼郡上田村字滝谷”。
上田村は現在塩沢町という名前になっている。

ということで、上田村及び塩田町についてを中心に調べている。

 

上田村郷土誌

会津藩との繋がり

上田村郷土誌によると、滝谷出身で先祖と同姓の方が歴代村長の中におられる。
この辺り一帯で多い苗字のようなので直接の繋がりはないのだろうが
遡ればどこかで繋がっているのかもしれない。

辞典によって、江戸期~明治22年には会津藩領だったことがわかっている。
正規には幕府直轄領で、
上田地区では滝谷村が一か村幕領代官所支配となった。
検地帳によると、会津へ移住した人も少なくない様子。

 

慶応四年3月の情勢

江戸での動き

1月に鳥羽・伏見の戦いが起こった後、将軍徳川慶喜が江戸へ戻ってしまった為
舞台は関東が主となっている。
幕府は主戦派と恭順派で割れており、新政府軍は3月15日に江戸総攻撃をしかける予定だった。
これを避ける為、恭順派が色々と画策をしている。

新政府が神仏判然令を言い出し、廃仏毀釈の運動が起こるのもこの月だ。

 

この頃の新選組は

甲陽鎮撫隊として甲府城へ向かうも
板垣退助率いる隊が迫っているという情報が入る。
土方歳三は援兵を願う為、洋装だったのを御前に出るのだからと
佐藤彦五郎家で敢えて羽織袴を借りて江戸へ引き返し、
近藤勇率いる鎮撫隊は新政府軍と戦闘になり敗退。

会津へ向かうこととするが、すぐに行きたい永倉新八と
体制を立て直してから向かいたい近藤勇で意見が割れ最終的には決別。
永倉ら7名が脱退する。
残った新選組は五兵衛新田で隊士を募集し、米を大量に購入して搗いて
糧食を作って戦闘の準備をした。
そもそも甲陽鎮撫隊は勝海舟の命令であったのに、
今更恭順しろと言ってくることに不満を持っている様子も見える。
上層部に振り回され足止めを喰らいつつも、教練を続けた。
土方さんはその合間に一人で川釣りに行って気分転換をし、
その姿が恰好良いと村娘たちが大騒ぎになったのだとか。
近藤さんも子供たちに小遣いをやって頭を撫でていたという話が残っている。

 

日野の様子

新政府軍は八王子や日野まで来ており、
日野と言えば土方さんのお姉さんノブさんが嫁入りした佐藤彦五郎家
土方さんの生家がある場所。
どちらも新政府軍から目をつけられていた為必死に逃げる様子が
日記などに残されている。
新政府軍は更に新宿まで進んで行く。

 

会津藩の動き

江戸詰だった会津藩士も続々と会津へ戻り、この月中に
密命を帯びて潜んでいる者を除き、全員が江戸を発っている。
その前に藩士が五兵衛新田の新選組のところへ訪れており、
今後の共闘について打ち合わせたのでは、とも言われている。

日光口にまで敵が迫ってくるので、守備のため
山川大蔵率いる砲兵一番隊が田島、糸沢に分宿、日光方面へ向かっている。

家老梶原平馬は長岡藩家老河井継之助を仲介にして
先月にライフル銃や弾薬をエドワルド・スネルから買い、
新潟港から陸揚げした。
品川砲台・箱館砲台の大砲・弾薬・諸機材等も一緒に運んでいる。

 

仙台では

長州藩士の世良修蔵が会津藩征伐の為、
総督九条道孝以下570名らと共に派遣されて来ており、松島を見学。
早々に会津を攻めろと命じられて困惑している。

仙台藩の中でも、会津は降伏して戦争を避けるべき、いや降伏の必要なし
と議論が割れていた。
会津藩が恭順するなら、仙台藩としては会津藩を討つ理由が無い。

仕方なく、新政府軍の要望に従い会津国境へ出兵し、
戦うという意思表示を新政府サイドに示すこととする。

 

この頃の上田村

会津藩は迎撃準備の為、各峠を視察に回っている。
地形などを説明するのに、地元庄屋が対応した。
各村から兵糧や弾薬を運ぶ為の人夫も出している。
勿論それに伴いお金や兵糧の為の年貢米も出した。
各村組の守備範囲も事前に決めている。

閏4月に入ると、新政府軍が上州辺りまでやってきて
その辺りの諸藩も新政府軍につき越後へ向かって来ているという情報が入る。
長崎村、早川村、雲桐村、三郎丸村、枝吉村、滝谷村、姥沢新田、
東泉田村、大月村など本領村々の民兵が
代官や同心の指揮で清水へ集まった。

道の大木を切り倒して防壁とするなどの作業を行うが
農家としては植付の最盛期でもある。
戦いが落ち着いているようなので上に届けを出して数人残して帰村したり、また呼び戻されたり、があったようだ。

いよいよ戦いが始まるとなり、今回出す人夫には命の危険もある。
誰を出すか村役人も悩んだという。
1日の日当、ケガ、戦死、手持品の損失などの補償が決められ、
出発するときには村中が集まって無事を祈り、送別の盃を交わした。
人夫は郷兵として槍や刀を持ち、食料や大砲、弾薬を運びながら
三国峠へ進んだ。

24日早朝、大雨の中やってくる新政府軍を見つけ、
慌てた郷兵が鉄砲を撃ってしまった。
猛反撃に遭い散り散りになって逃げる。
会津藩兵40余名が駆けつけて応戦。その後退却を始める。

幕府公領の役宅下一日市村岡村清右衛門の屋敷は新政府軍に包囲され
岡村清右衛門親子も捕らえられる。
更に新政府軍は六日町へ進軍。
陣屋の捜索、郷蔵の封印改め、家宅捜索などが行われた。

会津藩兵は脱出したが、怪我を負い歩けない者は
石打神社に隠して手当をした。
見つからないようにと、5月には長崎村の光明寺に移し、
医師宮田準亭が手当をする。
しかし6月についに新政府軍に見つかってしまい、連れて行かれたようだ。

長崎村郷元庄屋九右衛門と宮田準亭も捕まってしまう。

会津側の立場?

郷土史名前が出てきたわけでもなく、実際この時期に
ご先祖様が滝谷に住んでいたかはわからないのだが、
新選組・会津贔屓の自分としては、敵対する地域の出身ではなかったようで
ほっとしている。

農民が巻き込まれて迷惑をしている史料はちょくちょく目にしていたが
人夫を出して共に戦っていた村だったようだ。

先祖は武士、というのがまず真偽がわからないこと、
真実だったとしていつまでだったのかもわからないが
幕末より前に武士をやめ、滝谷村で農家をしていたというのも
十分ありそうな話だ。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (4) ~地名辞典~

地名と名前で本を調べてみる

先ず手始めに本から調べてみることにする。
因みにインターネットはいの一番にやってみたが、やはりご先祖様の名前自体ではヒットしなかった。

角川日本地名大辞典15 新潟県

最寄りの図書館にあったこの辞典からまず見てみる。
関わりの有りそうな地名は複数あるが、一番重要なのは
母の父方の一番古い戸籍に記されている『滝谷』という地名。

この滝谷、実は新潟県に二箇所ある。
新発田市 滝谷(たきだに)と、南魚沼市 滝谷(たきや)。
調べたいのは後者なので注意しないと混在していまう。

滝谷村

滝谷村は戦国期からあったようで、
天正16年3月16日に上杉景勝が福島掃部助に恩賞として与えたらしい。
その前は小田切氏領だったと思われる。

元和2年:長峰藩領→元和5年:福島正則領→元和8年:幕府領→寛永元年:高田藩領→天和元年:幕府領と領主が変わっており、
江戸期~明治22年蒲原郡、会津藩領となっている。

名字について

名字についてはインターネット検索で勿論ヒットする。
長野県、滋賀県がルーツで近年は新潟県、群馬県、東京都で多く見られるらしい。
江戸時代は滝谷で農業関連をしている人が多かった名字だという。

ところで、
自分のご先祖様とは言えどこまで”個人情報”を公開してしまって良いのか
悩むところなので、取り敢えず記事中では名字は伏せるつもりである。

新潟県立文書館 様へ問い合わせ

ネット検索でヒットする資料などを頼りに、新潟県立文書館 様へ
問い合わせをしてみたところ、ご丁寧な返信をいただいた。
名前ではヒットしないものの、郷土史など目ぼしい資料の名前を教えていただく。
その中でいくつかは国会図書館で見られるものもあったので
出かけてみるつもり。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (3) ~戸籍の情報整理~

家系図にしてみる

謄本を見ているだけでは中々情報も整理できないので、
まずは家系図にしてみた。

※この図は画質を落として加工済、兄弟姉妹は省略

母方は四世代、父方は五世代前まで遡ることができた。

こうして家系図にしてみると、同じ名字がちらほら出てくる。
自分の直系親族の一部の情報しかわからないのではっきりとは言えないが
母方K一族内で結婚していたり、この人もこの人もA家から嫁をもらっていたりしているようだ。
近代でしかも村だから、十分有り得る話である。

年表にしてみる

次は年表の形で情報をまとめてみた。

父方母方共に、判明しているご先祖の出生年月日はわかっていない。
恐らく、どちらも新潟で生まれたと思われる。

母方の祖のお嫁さんは嘉永五年生まれだ。

父方、母方共に長く本籍地は新潟になっている。
父方の曽祖父の兄が生まれたのが群馬県と、ここで初めて新潟以外の地名が出てくる。
父方の祖父の腹違いの姉が亡くなったのが岐阜県だ。

母方の祖母が生まれたのが京都。
母方の祖父の姉が結婚して戸籍を作ったのも京都になっている。
祖父が生まれたのは新潟。
滋賀生まれの祖母と結婚し、伯母は京都で生まれている。
京都に転籍したのは昭和後半だが、それより前に京都には引っ越していたのだと思われる。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (2) ~戸籍取得~

生い立ちのヒント

自分の生い立ちについて知っているのは、幼少期のとき
なにかの話をしていたついでに母が言った
「うち(母方)のご先祖様は新潟の武士だった」
「お父さんの方もそうだった」
「自分が小さい時住んでいた家には蔵があって、なんでも鑑定団で見るような刀や皿、家系図など巻物が入っていた」
この三点のみである。

それを聞いたとき、戦国時代なら上杉派だった自分は
上杉家の家臣だったりして!と思った程度であった。
思えばそのときにきちんと調べておけば良かったのだが、
後悔先に立たずである。
今より早い時というのは無いので仕方ない。

自分の家はちょっと複雑な家庭環境であり、
一言で簡潔に説明するなら今は天涯孤独の身の上というやつである。
よって、親戚に聞き取り調査をすることは不可能。
ということで、やれる範囲で遡って調べるしかない。

戸籍を取得する

ご先祖様を辿ろうと思ったとき、家に家系図がない人が調査として手を付けるオーソドックスなところはまずこれだろう。戸籍。

戸籍を取得すれば、以前にどの戸籍に属していたかが記載されている。
その一つ前の戸籍を役所に請求することを繰り返せば、自分の直系眷属を遡ることができる。

ただ、現在取得できるもので一番古いのは明治十九年式。
戦災で失われたり、戸籍内の全員が除籍となって一定年数が経過して廃棄されたりしている場合もあるのでそこは運次第となる。

プロの手を借りてみる

勿論これは自分で出来るのだが、自分の場合転籍も多く
億劫で取り掛かるのがこれ以上遅れるくらいならプロに頼もう、ということで
行政書士事務所にお願いすることにした。

自分の場合、基本料と実費費用(謄本や切手の代金等)、系譜の解読料合わせて
4万円程度。
期間は3ヶ月程。
お寺なども調査してもらえるのが一番だけれど、そうなると費用も桁違いになるのでなかなか難しい。
が、この程度の金額なら無理なくお支払いできる。
時間と手間をお金で買おう、ということで依頼したのである。

予定より早く戸籍が揃い、対応も早く
調査の経過もメールしてくれたので私としては満足の結果だった。

ルーツは新潟にあった

届いた戸籍を見てみる。
取得を依頼したのは、父方の祖父の先祖と母方の祖父の先祖。
これが、届いてびっくり。どちらも新潟だったのだ。

「うち(母方)のご先祖様は新潟の武士だった」
「お父さんの方もそうだった」

このお父さんの方『も』は『武士』にかかっていたと思ったが
『新潟』にかかっていたのだろうか。

壬申戸籍が見られれば一発なのだが、戸籍謄本だけでは
身分はわからない。
母が信じていただけで、実は武士ではない可能性もあるし、
武士と言っても色々いるわけで。
ここからどこまで辿っていけるだろうか。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (1)

きっかけ

学生時代は歴史について然程興味がなかった。
歴史の授業中、先生が脱線して話してくれる人物像やエピソードは面白くてノートの端に書き留めたが、受験用の暗記ばかりの勉強がどうしても好きになれなかったのだ。

ある時、幕末に関するお芝居を観た。
これが非常に面白くて、どこまで事実なのだろうと疑問に思った。
これが歴史の勉強を始めるきっかけだった。

思えば、京都生まれ函館育ち、東京在住という折角ご縁がありそうなところに住んでいながら
新選組のことをこれまでなにも知らなかったのだ。

勉強を続ける内に、新選組や会津藩に肩入れするようになり、
自分が七五三などで参っていた神社や
果ては通っていた学校が会津藩と関わりがあったことなどが判明し
前世なりご先祖様なり、なにかしらの縁があったのではないかと妄想し始める。

ご縁があったにせよなかったにせよ、いつかはご先祖様について調べてみよう。
と思い立って早数年。遂に重い腰を上げたのが、平成も終わり令和元年を迎え、
かつ土方歳三さんが無くなってから150年というこの節目
2019年なのである。