MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (5) ~上田村郷土誌~

国会図書館へ

予定がのびのびになっていたが、やっと図書館へ。
調べた資料は以下。

  1. 新潟県史 資料編7近世2(中越編)
  2. 民衆史研究
  3. 日本の町第2
  4. 上田村郷土誌
  5. 三百藩家臣人名事典2
  6. 三百藩家臣人名事典 4
  7. 高志路 8巻
  8. 東北史の新研究
  9. 六日町史 通史編 第2巻 近世
  10. 塩沢町史 資料編 下巻
  11. 塩沢町史 通史編 下巻

一日籠もっていたが、あと4冊ほど見たい資料があったが流石に手が回らなかったので次の機会に。

戸籍から拾えた”新潟県南魚沼郡上田村字滝谷”。
上田村は現在塩沢町という名前になっている。

ということで、上田村及び塩田町についてを中心に調べている。

 

上田村郷土誌

会津藩との繋がり

上田村郷土誌によると、滝谷出身で先祖と同姓の方が歴代村長の中におられる。
この辺り一帯で多い苗字のようなので直接の繋がりはないのだろうが
遡ればどこかで繋がっているのかもしれない。

辞典によって、江戸期~明治22年には会津藩領だったことがわかっている。
正規には幕府直轄領で、
上田地区では滝谷村が一か村幕領代官所支配となった。
検地帳によると、会津へ移住した人も少なくない様子。

 

慶応四年3月の情勢

江戸での動き

1月に鳥羽・伏見の戦いが起こった後、将軍徳川慶喜が江戸へ戻ってしまった為
舞台は関東が主となっている。
幕府は主戦派と恭順派で割れており、新政府軍は3月15日に江戸総攻撃をしかける予定だった。
これを避ける為、恭順派が色々と画策をしている。

新政府が神仏判然令を言い出し、廃仏毀釈の運動が起こるのもこの月だ。

 

この頃の新選組は

甲陽鎮撫隊として甲府城へ向かうも
板垣退助率いる隊が迫っているという情報が入る。
土方歳三は援兵を願う為、洋装だったのを御前に出るのだからと
佐藤彦五郎家で敢えて羽織袴を借りて江戸へ引き返し、
近藤勇率いる鎮撫隊は新政府軍と戦闘になり敗退。

会津へ向かうこととするが、すぐに行きたい永倉新八と
体制を立て直してから向かいたい近藤勇で意見が割れ最終的には決別。
永倉ら7名が脱退する。
残った新選組は五兵衛新田で隊士を募集し、米を大量に購入して搗いて
糧食を作って戦闘の準備をした。
そもそも甲陽鎮撫隊は勝海舟の命令であったのに、
今更恭順しろと言ってくることに不満を持っている様子も見える。
上層部に振り回され足止めを喰らいつつも、教練を続けた。
土方さんはその合間に一人で川釣りに行って気分転換をし、
その姿が恰好良いと村娘たちが大騒ぎになったのだとか。
近藤さんも子供たちに小遣いをやって頭を撫でていたという話が残っている。

 

日野の様子

新政府軍は八王子や日野まで来ており、
日野と言えば土方さんのお姉さんノブさんが嫁入りした佐藤彦五郎家
土方さんの生家がある場所。
どちらも新政府軍から目をつけられていた為必死に逃げる様子が
日記などに残されている。
新政府軍は更に新宿まで進んで行く。

 

会津藩の動き

江戸詰だった会津藩士も続々と会津へ戻り、この月中に
密命を帯びて潜んでいる者を除き、全員が江戸を発っている。
その前に藩士が五兵衛新田の新選組のところへ訪れており、
今後の共闘について打ち合わせたのでは、とも言われている。

日光口にまで敵が迫ってくるので、守備のため
山川大蔵率いる砲兵一番隊が田島、糸沢に分宿、日光方面へ向かっている。

家老梶原平馬は長岡藩家老河井継之助を仲介にして
先月にライフル銃や弾薬をエドワルド・スネルから買い、
新潟港から陸揚げした。
品川砲台・箱館砲台の大砲・弾薬・諸機材等も一緒に運んでいる。

 

仙台では

長州藩士の世良修蔵が会津藩征伐の為、
総督九条道孝以下570名らと共に派遣されて来ており、松島を見学。
早々に会津を攻めろと命じられて困惑している。

仙台藩の中でも、会津は降伏して戦争を避けるべき、いや降伏の必要なし
と議論が割れていた。
会津藩が恭順するなら、仙台藩としては会津藩を討つ理由が無い。

仕方なく、新政府軍の要望に従い会津国境へ出兵し、
戦うという意思表示を新政府サイドに示すこととする。

 

この頃の上田村

会津藩は迎撃準備の為、各峠を視察に回っている。
地形などを説明するのに、地元庄屋が対応した。
各村から兵糧や弾薬を運ぶ為の人夫も出している。
勿論それに伴いお金や兵糧の為の年貢米も出した。
各村組の守備範囲も事前に決めている。

閏4月に入ると、新政府軍が上州辺りまでやってきて
その辺りの諸藩も新政府軍につき越後へ向かって来ているという情報が入る。
長崎村、早川村、雲桐村、三郎丸村、枝吉村、滝谷村、姥沢新田、
東泉田村、大月村など本領村々の民兵が
代官や同心の指揮で清水へ集まった。

道の大木を切り倒して防壁とするなどの作業を行うが
農家としては植付の最盛期でもある。
戦いが落ち着いているようなので上に届けを出して数人残して帰村したり、また呼び戻されたり、があったようだ。

いよいよ戦いが始まるとなり、今回出す人夫には命の危険もある。
誰を出すか村役人も悩んだという。
1日の日当、ケガ、戦死、手持品の損失などの補償が決められ、
出発するときには村中が集まって無事を祈り、送別の盃を交わした。
人夫は郷兵として槍や刀を持ち、食料や大砲、弾薬を運びながら
三国峠へ進んだ。

24日早朝、大雨の中やってくる新政府軍を見つけ、
慌てた郷兵が鉄砲を撃ってしまった。
猛反撃に遭い散り散りになって逃げる。
会津藩兵40余名が駆けつけて応戦。その後退却を始める。

幕府公領の役宅下一日市村岡村清右衛門の屋敷は新政府軍に包囲され
岡村清右衛門親子も捕らえられる。
更に新政府軍は六日町へ進軍。
陣屋の捜索、郷蔵の封印改め、家宅捜索などが行われた。

会津藩兵は脱出したが、怪我を負い歩けない者は
石打神社に隠して手当をした。
見つからないようにと、5月には長崎村の光明寺に移し、
医師宮田準亭が手当をする。
しかし6月についに新政府軍に見つかってしまい、連れて行かれたようだ。

長崎村郷元庄屋九右衛門と宮田準亭も捕まってしまう。

会津側の立場?

郷土史名前が出てきたわけでもなく、実際この時期に
ご先祖様が滝谷に住んでいたかはわからないのだが、
新選組・会津贔屓の自分としては、敵対する地域の出身ではなかったようで
ほっとしている。

農民が巻き込まれて迷惑をしている史料はちょくちょく目にしていたが
人夫を出して共に戦っていた村だったようだ。

先祖は武士、というのがまず真偽がわからないこと、
真実だったとしていつまでだったのかもわからないが
幕末より前に武士をやめ、滝谷村で農家をしていたというのも
十分ありそうな話だ。

MY ROOTS 新潟のご先祖様を辿る (4) ~地名辞典~

地名と名前で本を調べてみる

先ず手始めに本から調べてみることにする。
因みにインターネットはいの一番にやってみたが、やはりご先祖様の名前自体ではヒットしなかった。

角川日本地名大辞典15 新潟県

最寄りの図書館にあったこの辞典からまず見てみる。
関わりの有りそうな地名は複数あるが、一番重要なのは
母の父方の一番古い戸籍に記されている『滝谷』という地名。

この滝谷、実は新潟県に二箇所ある。
新発田市 滝谷(たきだに)と、南魚沼市 滝谷(たきや)。
調べたいのは後者なので注意しないと混在していまう。

滝谷村

滝谷村は戦国期からあったようで、
天正16年3月16日に上杉景勝が福島掃部助に恩賞として与えたらしい。
その前は小田切氏領だったと思われる。

元和2年:長峰藩領→元和5年:福島正則領→元和8年:幕府領→寛永元年:高田藩領→天和元年:幕府領と領主が変わっており、
江戸期~明治22年蒲原郡、会津藩領となっている。

名字について

名字についてはインターネット検索で勿論ヒットする。
長野県、滋賀県がルーツで近年は新潟県、群馬県、東京都で多く見られるらしい。
江戸時代は滝谷で農業関連をしている人が多かった名字だという。

ところで、
自分のご先祖様とは言えどこまで”個人情報”を公開してしまって良いのか
悩むところなので、取り敢えず記事中では名字は伏せるつもりである。

新潟県立文書館 様へ問い合わせ

ネット検索でヒットする資料などを頼りに、新潟県立文書館 様へ
問い合わせをしてみたところ、ご丁寧な返信をいただいた。
名前ではヒットしないものの、郷土史など目ぼしい資料の名前を教えていただく。
その中でいくつかは国会図書館で見られるものもあったので
出かけてみるつもり。