目次
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■水戸で謹慎していた慶喜が静岡の宝台院に入っているため、山本 政恒は警衛のため、遊撃隊の一員として静岡に出張。
■日野宿本陣・脇本陣は嘉永二年に火事で焼け、元治元年12月末には完成し家族が移ったものの、共に正式な営業は再開していない。
■宮島 誠一郎、9月初めに江戸で前島から米沢藩降伏の報告を受けた宮島は、急ぎ国元へ帰り、庄内藩の降伏に向けて尽力。奥羽列藩同盟の発起人でありながら、諸藩に先駆けて降伏したため奥羽諸藩からの恨みを買っていた米沢藩に対する非難が高まっていたことから、宮島はむしろ率先して米沢藩が奥羽諸藩の罪をかぶると申し出る(「奥羽有罪在一身」)ことで疑惑を解消すべく、建白書を上申することを提案
藩当局の容れるところとなり、急ぎ東京(7月に江戸から改称)へ向かう。その頃、米沢藩には内外から箱館戦争への従軍を求められていたが、宮島はこれに反対し、静岡藩(江戸開城交渉により徳川家は江戸から静岡へ減封となっていた)の関口・勝らとも交渉して、これを回避。
9月1日
高台寺党の同志間で殺害事件
佐原太郎と中西登が仲間たちと酒を飲んだ帰り道、
中西が歩きながら佐原の脇腹を短刀で刺す。
佐原は深手を負いつつ家まで帰り着くも絶命。
阿部は、「中西は同志ではなかった」としているが、中西は伊東の門弟。
※土方らが送り込んだ密偵だったという説あり。
■榎本とフランス士官ブリュネ、青葉城へ
伊達慶邦(よしくに)に拝謁
■大内峠で日光方面から攻め込んだ政府軍と会津軍守備隊の激戦。
※現在も大内峠一里塚が残る。ここから若松まで五里。
大内宿は現在の南会津郡下郷町大内。
9月2日
■列藩同盟の作戦会議
仙台青葉城に榎本が登城。松平太郎、渋沢成一郎、人見勝太郎らの旧幕臣、新選組の土方歳三、フランス軍事顧問のブリュネ、カズヌーブ、通訳の田島金太郎らもいた。
会津藩外交方の小野権之丞、諏訪常吉、永岡久茂、中沢帯刀、南摩綱紀(元会津領斜里代官)らも登城した。
仙台藩からは藩主・伊達慶邦、但木土佐、坂英力、石母田但馬、石田正親、伊達将監、玉虫左太夫らの重臣が出席。
榎本艦隊の入港で主戦派が盛り返し、降伏を唱える者は捕らえて斬首すると発言。
仙台国境で死闘を繰り広げる相馬口の総督・石田正親が策を求めるとブリュネが、「馬を使って情報を素早く伝達し、兵を臨機応変に動かすことが肝要」と述べた。
榎本は「奥羽の地は日本全国の六分の一。軍人の数は五万を数える事ができる。この土地とこの兵がいれば、上方の兵を恐れることはない。機を見て軍略を行い、勝を制する事は決して難しい事ではない。しかし兵は調練が必要であり、兵学の原則にのっとって活動しなければ成らぬ。よってまず軍務局をおき、フランス人二人を雇い、軍事謀略を決め、有為の士、三、四人を選んで外国人教師の所見を叩き、馬を使って戦線を往復するべき」
ブリュネ「会津を早く助けるため大量の援軍を送るべき」
南摩、柏崎才一ら「会津的には城の囲みをとにかくときたい」と榎本に懇願
作戦会議が終わると、榎本らは宮城野原で行われた仙台藩の洋式軍隊、額兵隊の調練を参観した。額兵隊は仙台藩の洋式部隊。「薩長なにするものぞ」の意気に燃え、分列行進や射撃訓練の模様を披露した。仙台藩首脳は榎本に押されて軍務体制の刷新も進め、会津と関係の深い若生文十郎を軍事参謀番頭格に抜擢するなど、主戦派が主要を握った。どうなるかと見守っていた会津藩の外交方もひとまず安堵した。
しかし榎本艦隊の来航は遅く制海権は既に敵に奪われている。仙台藩恭順派の意見が日増しに強くなる中、榎本の考えは次第に蝦夷へ傾いていく。
‡ 明治維新というクーデター
■この頃雑賀は仙台、白石、福島を駆け回り会津援軍工作
■政府軍が阿賀野川を渡り北方の山地を迂回して木曾山道より大挙して館の原を襲撃。2、300の会津軍は近くの大鳥圭介隊、長岡から亡命した伝習隊の応援を得て防戦するも、次第に押されて山三郷の山地を下り、小荒井村(現在の喜多方市)へと退却。
■大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、熾烈な戦いを続けた。
※大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されている。
大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑が残る。
茶屋あともあり、昔から地元民に「見晴宜敷場所(みはらしよろしきばしょ)」と呼ばれてきた場所がある。
9月3日
■土方、仙台での軍議に参加。榎本から総督就任の推薦を受ける。
「大任だが、元より死は覚悟している。ご依頼なら敢えて辞さないが、三軍を指揮するなら厳しくやる必要がある。 生殺与奪の権も総督の二字にご依頼なら受けます」 と言い、各藩は
「従来総督の二字に付着したもので総督を依頼する以上は無論生殺与奪の権も与える」 と賛成したものの、二本松藩士安部井磐根こと清介が
「生殺与奪の権は藩主にあり」 と反論し、ご破算となる。
この後千台藩の反論は恭順に急転。列藩同盟は崩壊する。
■会津藩大庭恭平らも大鳥と会津へ
しかし大鳥、食糧が乏しく戦えないと主張、引き返す
■夕刻 、会津藩士酒井寅之助の弟又兵衛が多額の藩金を盗み天神橋口から脱走しようとして、 三之丸の南門で捕えられるという事件が起きた。
梶原 平馬は藩法に照らし、又兵衛の身分を剥脱するとともに五軒町で首を刎ね、 捕えられた現場にさらし首とした。
■会津藩士の堀粂之助は会津が篭城戦にはいった時に、米沢へ援軍を求めに向かい 今日到着したものの援軍要請は退けられる。
土佐藩から米沢藩に宛てた書簡がある。これは谷干城、片岡健吉、判権太夫の連名によるもので、「貴藩の厳然抗否」は驚愕すべきことだとし、賊徒である会津藩に与し、無罪の良民を殺しては物笑いになると、列藩同盟からの離脱を求めた。この書簡は藩内に大きな動揺を与え、恭順派の勢いはますます強くなり、ついに恭順に固まった。これは会津藩にとっては大きな打撃だった。
籠城戦に入ったとき、会津藩の首脳は、米沢藩の救援に一縷の望みをつないだ。再三再四、救援を求める使者を米沢に向かわせたが、最後は国境で追い返された。かくて列藩同盟は瓦解し、米沢藩は会津城下に兵を送り、官軍の一員として会津を攻撃する態勢も整えた。
‡ 明治維新というクーデター
■長州兵・杉山素輔のいる隊、三日か四日に大本営から今日は小銃戦争は一切ならぬ、向こうが発砲してもこちらは撃つなということだった。いったいどういうことかと聞くと、大砲でやるということだった。それでその日は暢気に台場で寝転んで見物した。
滝沢峠から討ち入った山の中腹に台場を築き、そこへ各藩が持ち込んだ大小砲をすべて引きあげたのである。いちばん大きいのが薩州の八○斤の臼砲で、総体で二〇門ばかりの砲を備えて城の天守閣を的にして発砲した。我々哨兵線から見ていると、ちょうど西南に当たる。午前八時から午後の四時ごろまでの大砲攻めであった。城中に籠っていた賊もこの大砲攻めにはよほど困ったろうと思われた。どのくらい砲撃したか、天守閣は蜂の巣のごとくに穴はあきながら、どうしても崩れない。天守台を撃ち崩すというのが、目的だったそうだ。「終始、天守台に登って直接に瞰下され、それからやられるから、これを撃ち崩しさえすればよい」という考えから、そうなったそうだ。その日の大砲攻めというのはひじょうに猛烈なもので、これほどの砲撃は初めてだった。
大砲による総攻撃が天守閣崩壊を狙ったものとは初耳だった。天守閣からいつも見下ろされ、そこからの合図でやられていた、という薩長軍の理解も新事実である。
長州兵・椿太郎吉も天守閣の攻撃について「官軍は諸方から会津に来て城の包囲は堅固となり、肥前藩は三里ほども行く大砲を持ってきて、東山に大砲を据えて撃った。他の藩はとてもかなわなかった」と、肥前藩のアームストロング砲の威力を語った。
砲撃の被害は甚大で、籠城の人々は吹き飛ばされ、日々犠牲者を増していった。
‡ 明治維新というクーデター
■当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号にも「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。
9月4日
■木曽口から攻め込んできた西軍が山口、粂部、池田、高橋文二郎、志村、河合、吉田、荒井、小幡、高橋渡、清水13人(20人説あり)で守備していた高久村の 如来堂を襲撃。
※他の新選組隊士が塩川に滞陣していたところ高久で戦闘になり、一小隊を繰り出すも如来堂は全滅していた、と島田や中島が言っている。
しかし上記11人中6人は実際には生き残っている。
■小野権之丞、若松居候ス子(ネ)ール妻子護送してきた。
■会津藩士の堀粂之助、故郷で援軍を待ち戦っている同士に顔向けできないとして、 辞世の句を遺して31歳にて自害。
辞世「神かけて 誓ひしことの かなはずば
ふたたび家路 思はざりけり」
9月5日
西軍、早朝に高久の陣を襲撃。
会津越後口 タダミ川裏破(薩摩藩慶応出軍戦状)
■土方と別れた後の会津新選組最後の戦い。
神指村如来堂での包囲を突破したときの指揮官が斎藤。
20余人に対して新政府軍は200~300。新選組の名を討って
名を上げようとしたか。
新政府軍の銃撃から潰走せずに河を渡って逃げ切る。
■諏訪に言われ、小野権之丞がスネル妻子に贈り物を。
■山三郷の十倉、上田に帰城し指示を仰いでからの再戦を提案。上田は「思うようにしろ。おれは長岡藩の兵と合流する」と言われ袂を分かつ。
長岡藩が既に会津に見切りをつけて米沢藩境に向かっていることを十倉は知っていた。
城に入ろうとするが敵に囲まれて無理。小荒井村に集結した部隊と行動を共にする。
山三郷を撤退した諸隊に坂下(ばんげ)方面から駆け付けた萱野権兵衛隊が合流し700ほど。
■館の原に続き船渡が破られ只見川防衛線は完全に崩壊。若松から出張してきた東山道先鋒総督軍による。
只見川の会津軍は北と南に転進。
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松本良順、米沢で戦傷者の治療、衛生指導。
ついで開陽丸で仙台に来舶していた榎本から手紙で来訪求められたときのこと。
松本、
「上海にいるときく米の海賊を巻き込んで仙台の輪王寺宮をたてて
桑名良順藩の松平定敬や兵と西上、戦いつつ京都にはいって
アメリカの援助で旧幕府の雪冤を図れば良い」
榎本拍手して喜ぶ。単に礼儀として賛同したのかも。
土方腕を組んだまま長いこと黙り
「先生のいうのはいつもうますぎる。天なり。命なり。
今更どうしようもできない。
もしそんな説をみんなに聞かせたら脱走が相次ぎ瓦解する。
我輩はすでに死神にとりつかれた。しすべきときに死ぬべきだろう。
先生、このことを二度と口外しないでくれ。
先生は有徳の人。不幸にして官軍に捕縛されるも医生なのだから
恥じることはない。先生は速やかに横浜に帰るべきだ」
相笑て辞し、別れる。
※以前米沢でも松本がこの説の草案を語ってる。から、「いつも」。
9月7日
新政府は箱館へ兵隊を送る計画を立て、奥羽征討軍の九条道孝、久我通久へ箱館派遣部隊の総督の人選を依頼。
9月8日
1月1日に遡って適用。