明治元年9月

明治元年

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西軍、外郭占領 
内郭と本丸はまだ会津側に


9月8日

慶応四年から明治元年と改元。 
1月1日に遡って適用。
イギリス人は革新を好まないので維新後も長い間東京を江戸と呼び続けた。

■諸藩へ秋田、箱館および東京への派兵を命じていた。
‡ 「太政官日誌」『維新日誌』

秋田へ派兵を命じられた藩
長門萩藩(500人)、周防徳山藩(200人)、豊前小倉藩(350人)、
出雲松江藩(300人)
東京へ派兵を命じられた藩
築後久留米藩(500人)、安芸広島藩(300人)
箱館へ派兵を命じられた藩
備後福山藩(500人)、越前大野藩(200人)、伊予宇和島藩(500人)

■早朝

会津飯寺の戦い

濃霧の中を同盟軍と示し合わせて、山本帯刀ら遊撃隊、
会津城下の南にあたる飯寺村(にいでらむら)の 
新政府軍(主力は徳川譜代の宇都宮藩兵)を攻撃した。
若松城は城下の米蔵との糧道を断たれており、 
他藩の兵を城内に入れ、籠城して冬の到来を待つことができずにいた。 

山本隊は、飯寺で宇都宮藩兵を会津藩兵と挟み撃ちにする作戦に出たが、 
長岡城の奪回戦でも異なる藩による同盟軍の連携は難しかった。
飯寺方向に突撃した山本隊は濃霧の中で敵陣に孤立。 
敵味方の判らぬ状態では攻撃することもできず、次々に銃撃された。 
会津藩兵は敗走。 味方の退却を知らずに突進し、 山本隊は壊滅。 
官軍には新手の黒羽藩兵の増派があり孤立し包囲される。
大隊長山本帯刀をはじめ三十余名が宇都宮藩兵に生け捕りにされた。 
このときに共にいた長岡兵44名のうち42名が戦死した。
山本帯刀の捕縛の知らせは越後口総督府にもたらされた。 
北越戦争の実質的な責任者でありながら長岡で足止めを食った山県狂介の本営は 
まだ越後の新発田城にあり、やっと先鋒隊が会津に入った段階であった。 
慈眼寺の会談にも岩村精一郎とともに会談に参加した 
薩摩藩の淵辺直右衛門を含む3人の越後口軍監等は 
詫びて恭順すれば命だけは助けるとの内旨があったと云われるが、 
山本はこれを拒絶。
「徳川300年の恩恵に背くことがなぜ出来ようか。 
我らは藩命により戦場にあるが、降服せよとは命ぜられず」
と反駁。寒風の中に一晩されされる。

日向 ユキの兄の新太郎は20歳。遊撃二番隊(相澤隊)の中隊頭として出陣。
城下町を転戦。この日は飯寺の戦いの最中腰を撃たれて立てなくなるが
座ったまま尚敵を狙撃。
肩を撃たれて鉄砲が撃てなくなり、部下に介錯を命じて自害。
部下は敵軍に包囲される中首を稲田の稲束に隠して逃げた。

■会津藩は桃沢彦次郎と武田虎太郎を米沢藩の本陣に向かわせ、降伏の打診をさせていた。しかし米沢藩の判断は「周旋は十に八、九は無理である。官軍には宥免の模様はまったくない」というものだった。
‡ 明治維新というクーデター

■山縣有朋、会津に思いを寄せた手紙を『越の山風』の中に残している。山縣が新発田滞在中に受け取った一通の手紙である。

米沢の一件その他、容易ならざるご配慮と想像奉り候。追々、当口出兵の事申しあげ候由、はなはだ至急申し候。しかるに強敵と申しながら、孤城数日相懸り、大兵をもって攻め落し候事、天下後世の人口如何これあるべきや。はなはだ本意ならずなり。その上城中には婦女子まで入り込み、必死の覚悟と察せられ候。時々は紙鳶揚げるなど小児を慰め候様子、また大砲打ち入候時は児女子の泣声相聞き候由、実に可憐の至りに御座候。城は落とし人は尽殺すも、官軍の意にあるまじく、敵ながら不憫に存じ奉り候。四面一歩も譲らぬように相囲み置き、彼一策これありたく候。これ余ご熟考の上、岩村まで速やかに御申しなさるべく候。会人は大概籠城、その他は所に拠り候由、かねてご承知の三ヶ条、帰降する者はゆるすの一条相加え、所々張り紙仕らせ候。御地ご用速やかに御片付け、早々御帰り下さるべく候。余はその節申し縮候。頓首

九月八日 侠平

 素狂老台

    御直披

‡ 明治維新というクーデター

しかし、彼らが会津側に積極的に働きかけることはなかった。会津側が「もはやどうにもならない」とみずから降伏意思を固めるまで、事実上、放置された。


9月9日

■旧幕軍、小田付(現在の喜多方駅東側一体)を出立し、土湯村に宿陣。 

土湯より鳥渡村に向かい宿陣?

■諏訪、若松へ

■会津飯寺の戦いで捕縛された帯刀をはじめ長岡藩士の斬首が決まり、 

藩主そして長岡の方向に別れを告げ、阿賀野川(大川)の河原で斬首された。 

現在の福島県会津若松市門田町飯寺大字川原がその場所にあたる。

帯刀の家僕、三河国牛久保城以来の牧野家譜代の長岡藩士・渡辺豹吉は 

越後から主人と行動を共にしてきた。豹吉は主人の死を見届け、 

遺骸を埋めてから死を賜りたいと懇願し、 

新政府軍の責任者も忠孝に免じこれを許したという。

山本帯刀、死に臨み持っていた軍資金200両を宇都宮藩家老に差し出して、 

長岡藩兵の追善供養を求めたとも、役に立てて欲しいと訴えたとも伝えられている。 

24歳の若さ。 

戦争責任を負わされ、ここに三河以来の武門の名門山本家は途絶えることになる。

■農兵隊による田島陣屋奪還戦、佐川官兵衛の隊、田島に駐留。


9月10日

山三郷撤退諸隊、萱野権兵衛隊が追撃の政府軍を迎撃。

十倉は防寒衣類の徴発


9月11日

熊倉(くまぐら。喜多方市東部)の戦い

山三郷撤退諸隊、萱野権兵衛隊が追撃の政府軍を迎撃し大勝。

十倉は斥候を務め、溝の中に潜んだ敵兵に狙撃されかけた。


9月12日

福島を経由し桑折に宿陣。

土方・榎本は仙台城へ登城。藩執政の大篠孫三郎・遠藤文七郎に面会。 

仙台の藩論は既に恭順になっており、土方らの意見は聞き入れられない。 

世子の伊達慶那に拝謁を許されたのは、せめてもの労いか。 

※佐藤家に伝わる土方の水色の刀の下げ緒はこの時拝領したとの説あり。

■十倉ら、塩川に転進し次の方針を協議。


9月13日

■旧幕軍、旧幕海軍の到来を知り仙台行きを決意。

■十倉ら、夜に大川沿いに若松の西側を迂回して城南方面に回り込み包囲の手薄なところから入城しようとする。

※戦国時代以来一部をわざと開放して囲み、士気強固でない守城者を誘い出し攻める戦法があった。その為会津軍は南に糧道(補給路)を敷き会津高田(会津盆地南端)の城外軍の本営から食糧・弾薬を調達。

十倉綱紀、転戦途中の塩川で代官猪狩らが公金横領を企む現場を目撃。

戦後再会したとき猪狩は、犯人は「今は函館で要職にある」と会津人仲間に吹聴しており、自分だと思われるのでは、冤罪であるが雪ぐ機会がないと日記に書いている。


9月14日

白石城下に宿陣。

■会津城、総攻め。3606発の大砲。 1分に1発の割合。50門で1000発以上とも。

山河鳴動。

西軍はこの日から三日間、

小田山砲台、舘、慶山の他若松城下外郭16門に砲列を布き

一斉砲撃。

鶴ヶ城内は修羅場となり多数の死傷者。埋蔵や治療の場所が無く、食糧も底をつき始め、戦闘員以外にはごく少量しか配給されなくなる。

軍事局員・鈴木為輔「弾に当たって倒れた馬の肉を食べるほどで心細く、いっそのこと早く破裂に撃たれて死にたいというほど」

‡ 戊辰会津開城に付使者の始末

連日早朝6時から18時頃まで激しい砲撃が浴びせられた。絶え間ない大砲の音で、小銃の音が聞こえないほどだったという。

ある日、山本 八重が有賀千代子とともに病室に握飯を運ぶ途中、頭上に着弾した。瓦とともに砂塵が舞い、硝煙も加わって、眼も口もあけられず、呼吸もできなかった。

やがて、有賀の姿が見えはじめると、土埃を浴び、土人形の化け物のような顔をしていた。思わず腹を抱えて笑ったが、有賀も八重の顔を指差して笑いこけたという。

盆に載せていた握り飯が塵にまみれてしまい、これには落胆したそうだ。

籠城戦の折、鶴ヶ城に撃ち込まれた砲弾に、四斤砲の不発弾があった。火薬によって中に入った鉄片が飛び散り、周りの被害を大きくする最新の砲弾である。

八重は、藩主/松平容保公に呼ばれ説明を求められた。不発弾を動じることもなく分解しながら、冷静かつ淡々と構造などを事細かく解説する。

当時の最新の砲弾の取り扱いと知識に、容保公や周りに控える者たちを驚かせた。

「さすが砲術師範の娘、さすが覚馬の妹である、あっぱれ」と言わしめた。

■越後の長州兵が会津若松城下に入った。この日、城南の飯寺村に砲台を築き高田口の会津兵に砲撃を加えた。山縣がこの日、会津若松に入ったかどうかは定かではないが、遅くとも二、三日後には長州藩の本陣に姿を見せたに違いない。そしてほどなく若松城は開城となった。

‡明治維新というクーデター

■夜通し大川の堤防を進んだ十倉ら、夜明けに小田山より城内に打ち込む砲煙を見る。

なすすべもなく彷徨い、夕暮れ時に糧道を守っていた隊の一つ青龍三番士中隊と渡場で合流。宿営地の一の堰村に案内してもらう。

‡ 戊辰戦争記結草録

■仙台藩降伏 

藩士の星恂太郎、憤り藩相数人を誅戮しようとして 

榎本、土方、諏訪らに止められる。

■秋月悌次郎の絶唱 

行くに輿こし無く帰るに家なし、国敗れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る

■梶原 平馬の妻二葉(山川大蔵姉二十五歳)は一子景清(三歳)を伴って入城、 

山川大蔵の妻トセ(十九歳)と共に負傷者の看護や炊き出し、洗濯、消火 

などの任に当たっていたが、 

トセはこの日、西軍の総攻撃の際直撃弾を受けて絶命した。


半ば

■面川にも薩軍が来て、泰雲寺の国老内藤可隠一家を包囲。一家は自刃。

■榎本艦隊、仙台東名浜沖に集結した。直ちに艦の修繕と補給を行うとともに、庄内藩支援のために千代田形と陸兵約100名を乗せた長崎丸を派遣した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、米沢藩、仙台藩、会津藩と主だった藩が相次いで降伏。庄内藩も援軍が到着する前に降伏し、これにより東北戦線は終結した。

■会津城下が戦火に包囲された為米沢に入っていた永倉と芳賀、

米沢藩雲井龍雄の援助を受けていた。


9月15日

■大鳥、仙台で榎本と面談。土方も榎本と共に国文町の外人屋という宿に逗留。

大鳥圭介と古屋佐久左衛門は上旬まで会津若松の周辺で戦闘を続けたが、弾薬、食糧の補給を失い、士気が著しく低下したため、もはや戦闘の継続は不可能と判断、仙台に向かい、新たに会津救援隊を編制、援軍を送らんとした。しかし二人が仙台で見たものは、恭順派の台頭だった。

大鳥圭介と古屋佐久左衛門が仙台に来て、会津絶望の情報を伝えたというのはこのときか。

奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩、正式に降伏表明。

■会津藩は手代木直右衛門と秋月悌次郎、森台に置かれた米沢本営に向かわせ、正式に斡旋を依頼した。このときも米沢藩の応対は冷たいものだった。

土佐藩の史料によると、

籠城三旬、城内の糧食漸く乏しく弾薬また尽きんとして家臣の死屍は城楼に満ち、城外の住民また家を焼かれて、櫛風沐雨の苦難の光景をおもうて、さすがに剛毅の会津中将も沈思しつつ降伏状を手に黙読これを久しくして意を決し、九月十五日諸重臣を会し、苦衷を披瀝して開城を告げた。軍事総裁山川大蔵らの重臣は互いに熱涙を絞って仰ぎ見るものなく降伏の軍議を決した。

‡明治維新というクーデター

もう駄目だ、これ以上やっても優秀な人間が死ぬばかりだと 

危険を犯して城に入り開城を進言 

「そうか、お前が言うのでは仕方がない」

■高田の城外軍の元に、米沢藩から降伏勧告が伝えられる。

幹部将校を列座させて聞いていた佐川官兵衛、使者に対し猛烈に反駁。

「列藩同盟の趣旨は私怨によって奥羽を戦火にまきこもうとする君側の奸を除くこと。会津領で無辜の民を殺し暴虐をつくす彼らは姦賊であって王師ではない」

「降伏を論じるにしろ、まずは会津に冠せられた朝敵の汚名撤回が先。その為なら単身仁和寺宮(征北越大総督)に哀訴することも辞さない」

‡会津戊辰戦史

この頃諸隊幹部の間でも抗戦論と降伏論が拮抗していたが、面と向かって佐川を論破出来るものはいなかった。

‡戊辰戦記結草録

■一の堰の戦い

青龍三番士中隊、十倉ら、鶴ヶ城南門まで半里の距離を進撃。しかし城南方面を封鎖しようとした政府軍が村の左右に進軍しており凄まじい白兵戦に。

十倉は輜重(しちょう)部に配属、弾薬補充。あまりの激戦に人夫もちりぢりになり、一千発入りの弾薬箱を自分で担いで前線に配達して回る。

城内から政府軍の退路を断つ為に朱雀四番寄合隊出撃。隊士三沢主税によると

この役は槍刀相結ぶあり、薙刀を振るう戦いあり、首を切る7、8級に及ぶ

‡暗涙の一滴

日没に引き分けに。

越後口総督・一瀬要人(いちのせかなめ)など幹部クラスなど50人が死傷。


9月16日

籠城戦の中平時と変わらず鐘を鳴らし続けた上野磯次郎、被弾して死亡。 

同役と後任者によって鳴らし続けられる。

■手代木直右衛門と秋月悌次郎帰城。 

夜、再び森台へ向かい、米沢藩に降伏申入れ。

長州藩参謀・山縣有朋の『越の山風』によれば手代木、秋月のほかに小森一貫斎もいた。

三人、肥後守父子降伏の使者として米沢兵の本陣に来たり嘆願するところありしに、米沢にては、さきに参謀より降伏を促したる書面に対して、なんらの返事をも致さず、今日になりて、かかる取次を依頼せらるるも詮方なしとて、右三人を縛して土州の本営に送致したるをもって、参謀、会議の上、情実偽りなきに置いては公然、降伏の実を表示すべき旨を論示し、いったん帰城せしむるべきに決した。

最初、米沢の陣営に降伏の使者が来たとき、米沢藩は「速やかに降伏せよ」と伝えたが、会津から返答がなかった。しかし、嘆願があったので、使者の手を縛り、土佐の本営に送った。米沢藩に会津を降伏させよという指令が出ていたから。

現地の米沢藩幹部は決死隊を若松城内に送って説得にあたり、聞き入れない場合は、城内に火を放つなどの策も検討していた矢先のことだった。

人道的見地から降伏を勧告するのであれば、砲撃を中止して使者を送るべきであった。それにしても返事が遅れたという理由で、米沢藩が会津藩の使者の手を縛り連行する必要があったのか。それは、つい先日まで同志だった秋月や手代木への配慮に欠けた行為だった。これを目撃した薩摩藩士・伊藤祐徳の感想が残っている。

会津藩重役手代木直右衛門は正義の者にて、これまでしばしば直諫等申し立て、城内を出て米沢へ忍び入り、同藩へ降伏謝罪の嘆願を依頼した。米沢藩も謝罪中の儀に付き手代木の手を縛り、参謀方へ連行した。

と『薩藩出軍戦状』に記載している。手代木は京都時代、公用方の重臣で薩摩にも知人がいた。会津藩を取り巻く状況は厳しいものがあり、そのため米沢藩はあえて手を縛ったという見方も成り立つが、どうだろうか。はなはだ疑問の多い処置だった。土佐の史料に米沢藩幹部が「苦戦と聞き、当藩が応援に参った」と板垣に挨拶したところ、板垣は不快の表情で「米沢の応援など受けぬ」と断ったという。それも含めて「米沢藩の対応は姑息だ」との批判はぬぐえない。会津と米沢の間にはいまだに気まずい空気が残っている。

‡明治維新というクーデター


9月17日

降伏した仙台城下に西軍が来るとの噂が広まり、城下にいた庄内藩士山岸市右衛門、白井吉二郎は 

「我が藩は必ず降らず、もし降るとも仙台とは違う」 

と説いて庄内への入国を誘った。 

仙台の会津藩士も庄内転戦を決定。陸路と海路に分かれて庄内を目指す。 

※雑賀は海路を取ったと記録がある。 

※結局は庄内も降伏した為、庄内領内への転戦は不可能になる。

桑名藩17人、松平定敬随行の為に新選組に加入。 

※新選組も旧幕軍も、蝦夷渡航に当たり有志のみを乗船させた。 

特に桑名、備中松山、唐津の藩士は随行人数が2、3~数人に制限された。 

その選に漏れた藩士は会津は落城目前。庄内の戦争に参加するにも米沢を通過しては行けず、新選組の隊士として随行した。 

桑名:18人 唐津:25人 松山:9人。伝習隊からも38人。

定敬は仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡る頃から一色三千太郎(いしき みちたろう)と名乗る。

旧幕軍総員約2000人。新選組22人。 

先行きがはっきりせず、外国へ行くという話もあった為、それぞれの自由裁量に任せたと思われる。 

松本良順は蝦夷行きに反対。 

土方も本心では反対であり 

「俺もそう思うが、俺がそう言えば脱走者が増えて榎本の戦力を削ることになりかねない。 

そもそもこの戦は300年来の幕府が倒れようというのに一人も腕力に訴え死ぬ者がいないのを恥じてのことで、勝算は無い。 

君は前途有望なのだから江戸に帰ったほうが良い。 

自分のような無能な者は決戦に挑み、国家に殉ずるのみだ。 

ご好意は有難いが、俺は蝦夷地へ行きます」 

と語る。

田村銀之助の兄一郎と録五郎も一旦離脱し、二ヵ月後に箱館へ渡り、先着していた土方と釈放された相馬と野村が加わったとする。(銀之助談)

若松在 青木村追討(薩摩藩慶応出軍戦状)

■夜、小野が榎本に頼むも益なし。

■一の堰で政府軍が反撃。幹部クラスを失った会津軍は押されて半里南の雨屋(あまや)村に退却。大川を西に渡って最後の拠点・高田に向かい敗走。

玄武士中隊隊長の伊与田図書(ずしょ)44歳、白虎隊士津川喜代美の父瀬兵衛63歳、山本 八重の父権八61歳など20名が亡くなる。

兵糧徴発の十倉も友軍の後を追うように敗走。

辿り着いた高田も既に政府軍に囲まれどれが敵か味方かわからない混戦状態。

敗れて会津盆地を捨て南の山岳地帯に退避。

途中の街道では婦女老幼が逃げ惑い目も当てられず。

標高930mの大内峠を越え大内村に向かう。

■越後に進駐した長州藩主力部隊の干城隊と奇兵隊が、会津若松の戦闘に間にあわなかった。長岡の河井継之助にさんざん痛めつけられ、会津侵攻が大きく遅れてしまった。干城隊の谷村作之進の回想記では、九月十七日に会津坂下まで進んだ。

‡明治維新というクーデター


9月18日

■旧幕府軍館岩で農兵隊募集。約300人集まる。

■山縣有朋、会津城籠城戦で包囲軍に加わる。

■会津では戦死者を埋めるところもなくなり、空井戸に投じたり、二の丸の畑に埋めた。

長州兵・杉山素輔によると、十八、九日頃であったが、矢文を向こうから打ち出した。どういう方法でやるか、竹の筒へ降伏書を入れてそれを小銃で打ち出すのだそうだ。それが一、二回参ったそうだが、握りつぶしのようなふうで、戦争を続けていた。

‡維新戦役実歴談


9月19日

■未明、大内峠を越えた荒川勝茂、路傍に多くの腐乱死体を見る。

‡明治日誌

孤軍となった1700人を37歳の佐川官兵衛が指揮。

城も会津平野も見えず、心細い。佐川陣将が諸隊を閲兵。今一度戦うだけの弾薬がある、拠点を築いてゲリラ戦を展開するのでみんな努力しろと言い、みなは失望する。十倉らは虚しく滞陣。

半分を率いて南の島田地方へ行き、付近に駐屯する政府軍守備隊を駆逐して武器弾薬を奪う計画。

十倉は菊地順蔵隊に編入されて雑役からは解放される。

‡八十寿の夢

結局は諮問も説得も受けないまま南会津に去り、降伏開城を事後承諾として知らされることになる。

■旧幕軍、仙台から木船へ転陣。(宮城県加美郡宮崎町)

■柴五郎の兄太一郎、一堰(いちのせき)村付近で足に銃創を受け、 

五郎のいる面川沢の山荘に従者陣森兵衛ら2、3人の部下に担がれてくる。 

部屋に収容して手当て。立てず、這うことがやっと。 

6、7丁奥の渓谷に運び、二畳ほどの板床を作り寧ろを敷いて、従者と共に匿い 

五郎が夕刻人がいないのを見計らい食べ物を届けるなどした。

敵が来たとの報があり、更に奥の松林中に入り傘を差して露営。

■降意を土佐藩に伝える為の使者、鈴木為輔と川村三介の二人が任命され、 

容保に拝謁し、梶原 平馬より酒を授ける。

一般の兵士には、白旗があがって初めて降伏と感じたが、じっさいは八日ごろから交渉が始まり、一九日前後に降伏の式典の進め方、会津藩兵、家族の身の処し方も含めて双方の合意を見たというのが、降参の経過だった。


?日

薩摩は分捕隊がまず人家に乱入
会津籠城時、少年たちが唐人凧をあげて見方の士気を鼓舞 
殿様を守る護衛隊として白虎隊より年少の10~15歳 
隊長は西郷寧太郎 
べろくん出し という鬼のような唐人が舌を出している絵柄の凧

真夜中に女が自分の焼け跡に行き沢庵や大根のおろしがねを拾って帰る。
重宝がられ皆が貸してくれという。
戦った婦女子は江戸や京都詰め 
生まれて初めて故郷に帰り、町も知らずどこに逃げていいか分からない人も。 
会津で婦女子の教育はしていなかったが、江戸や京都にいたから勉強も武芸もでき、プライドも高かった。身内が鳥羽伏見で亡くなった人も。 
男性は女まで出したとか恥ずかしいからやめてと言ったが聞かなかった。 
上級士族の婦女子は率先して看護、炊き出し、弾薬作り。 
これがなければ一ヶ月も籠城はもたなかったのでは。

砲丸が城中に落下すると、婦女子が水を浸した蓆や俵で覆って消す。 
衣服の汚れも顧みず、手当てや炊き出しも奮闘。 
最後の時には白無垢で、薙刀にて敵陣へ切り込み果てる覚悟。
「我々の無念を、全員死ぬ事で百年後の歴史に問う」
会津避難の半鐘を鳴らしたのは城下に侵入されてから。
老人白虎隊、藩兵の妻娘ばかり。武器も槍と火縄銃くらい。 
敵に捉えられ屈辱を受ける婦女子も続出 
白河口から攻めた兵、老婆を溝に叩きのめし殺害 
服も食物もなく、脱走や自殺する者も。 
降参と大書した白旗を城門に。


9月20日

■晴れ。 

松島に移動。松山・唐津の藩士25人が新選組に加入する。 

土方、杉浦清介と面談。 

杉浦曰く、非常に威張った態度で、新選組加入を強制されたとする。 

※この頃の土方について、小者の癖に偉そうだったなどの記録が多い。 

土方は戦場には出ない上役たちに対しては厳しい態度で接したようだ。

■落合、牛首へつり、阿戸瀬川原の激闘。

■明治天皇一行、京都を出る。

■(米沢へ)又々城中より降伏の使者あり。

土佐藩の史料によると、

秋風戎衣を払う九月二十日、会津藩の手代木直右衛門、秋月悌次郎、桃沢彦次郎は使者となって窃かに城を出て、塩川に在陣の米沢藩の陣営に総監倉崎七左衛門を訪ねて開城降伏の事を告げ来たった。これを聞いて倉崎は三重臣の帯刀を預かって深編笠を与え、これを伴って土州藩の本陣に同行し、板垣を訪ねてこの旨を告げ、その取り持ち方を願い出た。板垣は降伏使として来れる三名の縛をとかしめてこれに応接した。手代木直右衛門は、「一藩帰順を決して我ら降伏の使者として参りたれば発砲を御差し控え下されたい。なお幸いにして帰順を容れらるれば、願わくば寛典をもって寡君を処せられたく、事ここに至るは重臣頑愚輔導の道を誤るにあり、拙者らを厳刑に処して寡君の罪を寛恕せられたい」と哀願した。板垣、これを聞いて、

「我らもまた武士の情をしらざるものにあらず、しかれども発砲の事は降旗の城門に出ずるを待って中止すべし。しばらく待たれよ」

と降伏使を別室に残して、この日、米沢口より到着せる土州藩の越後口大軍監深尾三九郎を同伴して薩州藩の本陣に伊地知参謀を訪れ、会津藩降伏の事を告げて協議を行った。

(『土佐藩戊辰戦争資料集成』「戊辰役を語る」)

薩摩の史料では会津藩の降伏使は手代木、秋月、小森だが、ここでは小森ではなく桃沢になってる。また松平容保が決断したとも描かれている。

そして、長州藩の本陣から山縣有朋、多久与兵衛らも駆けつけ、降伏を受け入れることになったとある。ここに山縣の名前があるのは注目すべき記述といえる。山縣は越後で苦戦し、会津に着いたばかりだった。戦闘に遅れた山縣に発言の余地はなかったことであろう。

土佐の記述なので、すべて板垣を中心に描かれ、武士の情けを持つ武将として板垣が描かれている。板垣ほどの人物である。当然、会津藩に対する憐憫の情はあったろうが、みずから休戦に向けて動いた形跡はない。東北の視点に立てば不満は残る。

山縣有朋も『越の山風』によると、

余が若松に入りたる時には、白河口の官軍、すでに城の二面を囲み、城を屠るにもはや多分の日子を要せざるべしと思われたり。かかる場合に来会したる応援軍が先鋒に遅れたる気味にて、なんとなく肩身の狭き感じあるは、実地に経験のある軍人のよく知るところなるべし。余は奥州口官軍の本営に至りて、薩州の参謀伊地知その他に面会し、その戦捷を賀し、既往の戦況につきて、互いに談話をなしたる後、攻城の画策決定しおるならば、いずれの方面にても構わず一方の口だけは、我が手においてこれを引き受くべしと陳べたり。しかるに目下のところ日光街道の口が攻城兵の不足なるため、なお一条の活路を存しおるにより、取りあえず高田駅の賊を屠り、しかる後、攻城の画策を論議すべしとのことなりしをもって、余は即ち、高田駅の攻撃に加勢する事を約したり。

こうした場合でも土佐藩は眼中になく、板垣退助の名前は一行も出てこない。長州の面子にかけて土佐などに頭を下げられるものかという心境だったろう。

降伏に関して、藩主松平容保が積極的に関与したことは『会津戊辰戦史』にも記述されており、まちがいのない事実である。ただ、会津藩がこうした事態に立ち至った原因は、手代木がいうように「重臣の輔導の誤り」にあるわけで、容保の優柔不断さも原因になっていたことは否めない。

たとえば京都守護職にあったとき、容保は何度も辞任を決めたが、いつも慶喜に押され、その職に居座り続けてしまった。籠城戦に入ってからの容保は、陣頭指揮を執り続けた。一時、政務担当家老の梶原平馬は、籠城戦に見切りをつけ、主君容保の米沢退避を重臣に諮ったことがあった。だがこのとき、容保もここにとどまることを表明した。家臣がつらい籠城戦に耐えられたのは、「城が破られたときは自害する」とまで表明した主君の言葉の重みのためだった。

松平容保は家臣と一緒に籠城戦を戦い抜いたことで、見事に会津藩主としての務めを果たした。

‡明治維新というクーデター


9月21日

明日白旗を掲げると決まった夜、山本八重が簪で城の白壁に和歌を

明日の夜は何国(いづこ)の誰かながむらん 

なれし御城に残す月かげ 

八重子

白旗は女たちが木綿の端切れを出し合い縫い合わせた。

■会津藩が白旗をかかげるまでの状況については、諸説がある。薩長の一般兵士は、「会津藩が突然、白旗をかかげた」と証言する。裏面での工作は上層部しか知らない事項であった。

長州兵杉山素輔の証言

二一日に向こうから白旗を立てて出て参ったので、白い旗を立てて出れば、それに向かって発砲することはできない。その使者を呼び入れて見ると「降伏したい」ということであった。それでついに戦争は中止になった。その通知が大本営から我が哨兵線にやってこなかったので、分捕り大砲で、朝っぱらから一発ぶち上げてやろうと三発ばかり榴弾を発した。ところが隣の備前の人が、「矢止めがかかったから発砲してはならぬ」といったが、この方に矢止めが来ないうちは、かまうものかと撃った。大本営が驚いて「発砲してはならぬ」というご沙汰があった。二三日に城を明け渡すということに決定し、大本営より城を受け取りに参ることになった。

奇兵隊の小島荒一は「たしか九月二十一日と思うが、いよいよ本城へ討ち入るというので、行って見るとずっと竹矢来がしてある。官軍の方にも垣がしてある。奇兵隊はこれまでずっと先鋒をやって来た。いよいよ城ぜめになって他の藩に先鋒を取られては残念だからどうしても先鋒をやると一小隊、二小隊、三小隊、皆討ち死にする覚悟で、切り込む了見であった

‡明治維新というクーデター

■容保、降伏を知れば城外軍が全滅覚悟の報復戦を試みるのではないかと心配し、この日付で4人の陣将(大内村に陣地を構えていた上田学太輔、諏訪伊助、重傷で桑原村治療所にいた一瀬要人、田島で戦闘を指揮していた佐川官兵衛)あてに親書を発送し降伏への同意を求める。

城から最も遠い田島に終戦が告知されたのは26日。

■ 朴木向、古町道城で銃撃戦

■長州兵・杉山素輔によると、会津藩から白旗を立て出て参った。白い旗が立っていれば、それに向かって発砲することはできない。使者を呼び入れて見ると、降伏したいということであった。それで戦争は中止となった。

‡維新戦役実歴談


9月22日

鶴ヶ城落城

■朝、大手城門に降旗を建つること、大小銃器を引き渡すこと、肥後守父子は軍門に降伏の手続を了し、ひとまず帰城して、父子ともに滝沢村妙国寺へ謹慎すべきことなどの条件を申し渡し、秋月その他を帰城せしめたる由。

‡明治維新というクーデター

米沢藩を介して降伏の交渉 

軍事奉行添役秋月悌次郎、大目付清水作右衛門、目付野矢良助らとともに開城式に臨み、 

西軍の軍監中村半次郎に諸藩老連署の書状を手渡した。 

容保・藩士の歎願書に続いて、 

萱野・梶原・内藤・原田・山川・海老名・井深・田中・倉沢等連名の歎願書が提出された。(儀式の出席者は藩主父子、梶原・内藤・秋月等) 

巳の刻(午前十時)過ぎ、麻上下に草履ばきで城を出て

北出丸前に設けられた式場に容保と喜徳が徒歩で出頭し、降伏状提出。 老公として戦争を指揮した容保の名前でしたためられている。

城内に戻り、籠城中死者を葬った二の丸兵郭の梨子園と 

三の丸の空井戸に香華を供して別れを告げる。

皆恨みを忍び涙を飲み、顔もあげられない。場内にいたのは4956人。

二公は謹慎場所の妙国寺へ。

北追手門前に降参と書かれた三本の白旗。門外は一面の焼け野原。

山本 八重、真夜中の12時ごろ、三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りに心情をかんざしで刻んだ。

「明日よりはいづこの誰かながむらんなれし御城にのこす月影」

藩籍を持たない夫/尚之助は、開城の直前に城から退去させられ、江戸で塾の教師になったようだが詳細は不明、が従来の伝承であった。

会津に残る多くの資料には「浪人砲術師」とあり、東大総長になった山川健次郎も「但馬辺の浪人」と記述している。

西軍の鶴ヶ城総攻撃の9月14日に離縁を告げ、その日から行方が分からなくなったとも。

NHK大河ドラマ「八重の桜」が決まった平成24(2012)年の夏ごろから、謹慎地/猪苗代から東京へ護送され、後に斗南藩へ移ったとの説が出て来たが、妻である八重は斗南へ行っていない。

藩の重税に不満を抱いていた農民たちが一揆を起こして、2ヶ月にわたって打ち壊し等が続いた。

会津藩の籠城者は約五○○○人、このなかに婦女子が五七〇人、老人、幼児が五七五人、病人が二八四人もいた。この人たちが一カ月に及ぶ無差別砲撃に耐えた。

城内にはまだ戦意旺盛な藩士及び兵三千弱、婦人子供二千が立てたてこもっていた。そして、砲五十門、小銃三千八百四十五丁、大槍三百二十、薙刀八十一、小銃弾が何と二十五万発も残されていた。

■山縣有朋、降伏の式典にも出ず、長州兵を郊外の会津坂下に引きあげさせ、「賊軍すでに平定に帰し、その討伐に従事したる者が、依然として淹留するは弊多くして益なきこと」として津川から新発田に向かっている。その後江戸へ下向、長州へ戻った。越後平定という戦果は挙げられたが、薩摩兵と長州兵の連携がうまくいかず、黒田とも対立し一時参謀を辞職、復職したが薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山県が薩長に気配りしたことで解決している。

■長州兵藤井浅次郎の証言

22日になって「降参」と書いた旗を立てて三人が来た。

‡明治維新というクーデター

■箱館へ向かう軍艦開陽丸にも報が届く。


9月23日

■庄内降伏

面川沢の山荘にいた柴五郎、銃声が止んだのを聞く。 

太一郎は足を引きずって歩けるようになっていた。 

村民がこっそり様子を見に行くが、藩公以下皆死す、皆自刃した、 

開城し殆ど皆無事など様々な情報で真偽がわからず。 

留吉から落城を聞く。

■長州兵杉山素輔の証言

大本営より城を受け取りに参ることになった。調べたのは我々ではないが、大砲一門に対して弾薬が一発しかない、二○○○丁あった小銃も一丁について弾丸が三発しかない、というありさまだった。

■長州兵藤井浅次郎の証言

城を受け取りに行った。じつに哀れ千万で、殿様のいるところもなにも哀れなものだった。城の玄関前から塹壕を深く掘って、そのなかに畳が敷いてあり、皆そこに入っていた。米がわずかに二〇〜三〇俵しかなかった。

‡明治維新というクーデター

■会津城、開城。 

野口成元、城明渡委員として山川浩と残り、昼夜整理、戦死者の埋葬より機密書類の整理を完了させ引き渡しを完了。

西賊と呼んでいた敵を王師(官軍)と認めて屈することに。

開城直後に、「女と子供は追放され、男は全員が切腹」との噂が流れた。

山本 八重は切腹するつもりで男装のまま、弟/三郎の名を騙り、埋門に集合した男の列に並んだ。

しかし、途中で女と見破られ、猪苗代の謹慎地へ着くと追い出され、母/佐久と覚馬の娘/みねを連れて、祖父/直高の奉公人の家に世話になる。

新鶴付近で農作業に従事し、村の子供たちに読み書きなどを教えている。一時、米沢の内藤新一郎宅へ出稼ぎに出るほど、困窮した生活を送る。

男女は出る門も別。髪も乱れ汚れた女たちを見て敵は嘲笑した。 

長く歩かされ夜半古寺で一夜。握り飯を与えられる。

570人余の老幼、ほぼ同数の婦女子は任意の場所へ、300人近い病人は郊外の病院へ。戦闘員は猪苗代へ。

謹慎は監視下で民家や寺院で雑魚寝。

塩川は米沢藩が警備を担当しそこまで厳しくなく、各地に疎開した家族と連絡を取ることができるように。

十倉新八は8月末に越後から撤退中に車峠で戦死と家族に伝えられており、夜塩川を抜け出して家族の疎開先を訪ねると70歳の祖母が新八の背中をさすりながら
「死んだと伝えられたので位牌として弔っていたが、図らずも会えて嬉しい」と泣いたという。

猪苗代までの護送は米沢藩。 

婦女子老人は城北塩川。 

喜多方付近の浜崎に570余人、とも。防寒の衣料も渡され丁重に護送された。 

城外も同じく 

が、婦女子と60以上14以下勝手次第23日より立ち退くべき

郭内は焦土と化し、残った家には敵軍の標札が掲げられた。 

婦女は捕らわれ狼藉の様子。

肥前藩によれば 

会津は侍764名、下級兵士1609名 

負傷者570名 

脱藩浪人462 

婦女子639 

役人199 

一般人646 

藩主従者42 

人足42

若松に行って手当てをしたウィリスによると降伏時、城内に600ほどの負傷者がいた 

会津だけで2000以上

■入小屋、木伏、大橋の戦い。


9月24日

■野口成元、猪苗代謹慎所に謹慎

■風浙歴(さんずいへんあり)として雲惨憺たる中を城兵一同と共に古川 兼定も城を出で猪苗代に謹慎したのである。

■南会津の山岳地帯で城との連絡を断たれた1700人の大部隊が日光方面から来た新政府軍と戦いを続けていた。降雪の中素足に草鞋、または草鞋も得られず素足で戦闘。

大内村付近の諸隊はこの日降伏の知らせを受ける。

十倉綱紀は思いもかけない報(勝てるとは思っていなかったが、死ぬまで戦いきると思っていた。)に万事休す、一同落胆。おめおめ処分を待つより江戸の大総督府に斬って出ると言う者もあり。榎本の方へ行こうと言う者もあり。ただ死処を選ぶのみ。十倉も榎本の所へ行こうとする。既に実行しようとして密議が漏れ、陣将から説諭があった。この後脱走する者があれば主君に迷惑がかかるので謹めと言われ、皆思い留まる。

‡八十寿の夢

会津藩士は生き残り約5000人。鳥羽伏見の死者約3000人。会津にとっては戊辰戦争は戦死率40%近い。

若松は政府軍軍政局の占領下に置かれ、立ち入り禁止の焼け野原として放置。朝敵埋葬禁止令により遺体は野晒し。

首を斬って長持に入れ、人夫に運ばせたケースもある。しかし遠くまでは運ぶことはできない。どこかの墓地に埋葬するのだが、それがすべて記録されているとはかぎらない。

会津の奥、南郷村の村史を読むと、「馬喰左兵衛は敵に挑発され戦闘に巻き込まれて銃殺され、農兵松太郎も撃たれて即死」という記述がある。会津全域の町や村の歴史をていねいに見ていけば、かなりの数が出てくるはずである。「降伏した会津藩士は近郊の猪苗代に約二九○○人、塩川・浜崎に約一七○○人が分散収容され、老幼婦女子は釈放された。釈放されたといっても、住まいは灰燼に帰している。伝を頼って郊外の農家の納屋などを借りるありさまだった。

一日も早く家族一緒に生活できる日を念じたが、それはついに叶わなかった。会津の男性は全員、戦争犯罪者として裁かれることになり、重臣は江戸へ送られた。

‡明治維新というクーデター

■長州兵杉山素輔の証言

二四日と記憶しているが、城を引き払うことになり、会津の藩主は東山に立ち退くことになり、脱藩兵二七〇人ほどが、猪苗代に移り、ひととおり落ち着いた。

‡明治維新というクーデター

■滝原の戦い、大芦の戦い。


9月25日(11/6)?

■容保とその子喜徳 

礼服で降伏と書いた大きな旗を持った家来を先頭に立て、礼服で頭を剃った守備隊員を従えて降伏。 

城と武器を引き渡し町の寺でちっきょ 

東軍の幕僚長中村半次郎はその受け取りに行き男泣き

■イギリスの政策挫折を願い会津を応援していた諸公使も

■河井 善順、坂下の庄屋の仲介で奥平謙輔と面会。秋月

梯次郎宛の書簡を預かる。

■叶津で銃撃戦、会津藩降伏の知らせが届く。

■庄内藩、ほぼ無敗のまま忠発の裁断で降伏を決意。

■干城隊の谷村作之進の回想記では、この日新津村に帰る。

‡明治維新というクーデター


9月26日

■城下から最も遠い田島に降伏の知らせが届く。

■和睦会津戊辰戦争集結。

■庄内藩、中老水野藤弥を正使に、郡代兼軍事掛の山岸嘉右エ門を副使として、古口まで到達していた政府軍参謀黒田了介(清隆)に会い、降伏謝罪する旨を伝えました。このとき、黒田は、降伏条件として、城地を献納し藩主は菩提所で謹慎すること、兵器を全部取り揃えて差し出すこと、国境の兵を撤退させることを述べ、この条件を書類にして二人に与えた。

夕刻、黒田参謀は早くも鶴ケ岡に着き本陣に当てられた藩校致道館に入った。

夜半、庄内藩13代藩主酒井 忠篤は礼服を着けて単身致道館に出向き、黒田参謀の前に謝罪。庄内藩は奥羽越列藩同盟の最後の降伏者として、新政府の軍政下に入った。

忠篤に会った黒田参謀は、新発田にある北越総督府に速やかに出頭して指示を受けることを伝える一方、藩士に対しては所持していた刀槍、銃器の一切を差し出すことを指示しただけで、藩主は敗将としての屈辱を受けることもなく、藩士は自宅で謹慎するという意外な処置ですんだ。

■政府軍が酒田に入る。その軍勢は、薩摩ほか長州、小倉、鍋島、秋田、新庄、本庄、八島、加賀、出雲、肥後、備前など約4千人。


9月27日

大内村諸隊、茫然自失で山を降りて会津盆地南端の福永村で武装解除を受け、正式な降伏手続き。

「初めて王師なるを知り驚いて兵器を納む」

‡戊辰戦記結草録

途中官軍は箪笥や長持など盗奪(分捕りとは言わせない)品を人夫に持たせ鼻歌交じりで行列を作って江戸に引き上げるところで、近くを通った時には一刀に切り捨てたいと思った。

おれの19年の歴史はここに尽きた。

‡八十寿の夢

敵の弾薬や食糧を奪う戦闘行為としての分捕りと、空き家から個人の財産を盗み出すのは分捕りとは言わせない、と。

四里先の謹慎地、塩川へ。

黒田参謀が鶴ケ岡城と武器の接収を行い、同時に政府軍の民政局と軍務局が枝城の酒田・亀ケ崎城に置かれ、戦後の統治を行うことに。

■庄内藩も開城して謹慎を命じられ、酒井 忠篤は東京清光寺に謹慎することになる。


?日

約3100の城内の会津兵、猪苗代に集めて東京で監禁 

この時秋月悌次郎に、長州干城隊参謀の奥平謙輔が書簡を。 

幕府の為によくやってくれた。この後はその忠義を朝廷に捧げ国家に尽くしてくれないか。 

秋月は謹慎所を密かに脱走し、奥平に会いに新潟へ。藩主の助命と少年二人(山川健次郎と小川亮?最年少。)の教育を頼む。 

奥平は前原一誠に頼み、二つは見通しがたつ。 

健次郎の兄で斗南藩の責任者山川浩は前原に、会津築城時本丸大書院に飾った「泰西王侯騎馬図屏風」を送ったという 

(明治9年、萩の乱 思案橋事件 

処刑されるとき奥平は秋月だけに遺書を送っている。)

城外の1700は塩川に集めて越後高田で監禁 

将兵は翌年雪の中を徒歩で護送、一年半謹慎 

最中に憤死した兵も

会津藩は滅藩 

28万石から3万石(実質7000石)の斗南へ


9月29日

西郷は黒田のあとを追って最上川を下り、清川から鶴岡に入り、黒田が降伏の処分を終えるのを見て新発田に立とうとしたが、黒田のたっての希望により鶴岡滞在をこの日まで延ばした後黒田と共に鶴岡を去った。

西郷は鶴岡では街道に神楽橋の旅館七日町の加茂屋文治に泊まった。


明治元年